禅語について 禅語とは禅のことば。『禅』とは何か、心の動きについてを知るための重要な言葉。 禅の教え、悟りの境地をわかりやすく短い語句にしたものが『禅語』です。 禅語は、言葉の意味、そして語句の形に美しさも備えています。そんな禅語を五十音に紹介いたします。
■ 禅語ひらがな順表示 >> あ行 雨収山岳青 (あめおさまりてさんがくあおし) 降りしきる雨に視界をおおわれてしまうと、われわれの眼には何もはいってこないが、一旦雨があがると、 前方に夏の山がいつもの通り青くくっきりと現れてくる。蒼々たる緑樹は輝かんばかりである。 煩悩の雲霧を払ってしまえば、人々に円満具足する仏性も、おのずからその輝きを増してくるであろう。 一期一会 (いちごいちえ) 茶道から出た人生の名訓。大茶人でもあった井伊直弼が茶道の奥義を書き残した「茶湯一會集」の巻頭に説かれている。 一期は一生、一会は唯一、今生の出会い、茶席で幾度同じ主客が会するとしても今日の茶会はただ一度限りの茶会。 なれば主客は全身全霊、誠心を傾けて取り組めと心を示した。 一念忘機 (いちねんきをぼうず) 人間は感情の動物と言われる。喜怒哀楽だけにとどまればいいものが、自我やら執着心が吹き出し、 無心になることが極めて難しい。「機を忘ず」とりもなおさず心を働かせず、無用な一切の計らいを捨て切る処に、 何時も晴れ晴れとした豊かな心の持ち主になれると、先哲は教えられた。 一華開五葉 (いっかごようをひらく) 対句に『結果自然に成る』とは、一つの花に五弁の花びらが開き、やがて自然に実るように、 初祖達磨の教えが末広がりに栄えていくことを予言して、二祖に伝えたとされる言葉。 か行 関 (かん) どっこい通さぬぞ。通り抜けあいならぬ。内と外、迷いと悟りの関所である。 しかし、ここを通らねば、安心(あんじん)の処には到達できない。悟りの関所は、 容易には寄りつけない。年始に相応しい厳しい一字である。 潔白 (けっぱく) きびしい言葉である。洗いぬき、清めぬいても到底生まれたままの無垢の白さに帰れようか。 それを禅は、事もなげに「自性は常に清浄」という。無心こそ清浄であり、真の意味の潔白である。 帰去来 (ききょらい) 「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる」という陶淵明の「帰去来の辞」にある有名な語。 うかうかと面白おかしく歳月を送るのは止めにして、人間本分の事に帰ろうよという。 喫茶去 (きっさこ) 「趙州喫茶去」の公案からのものと解する。”まあお茶を一服お上がり”という意。 だがその中には貴賤、貧富、老若、男女、迷悟、凡聖の区別の無いあいさつであることを知ることが大切。 日常を反省してみた場合、どうであろうか。一様に心を入れてお茶を供しているであろうか。 帰家穏坐 (きかおんざ) わが家に帰ってゆっくりとあぐらをかいた時が一番だ。男は外に出ると多くの敵に出会うという。 充実した精一杯の仕事を終えて帰るわが家こそ、心安らかな自由と安穏の世界がある。 心のわが家、魂の憩うふるさとが一人ひとりの家なのだ。 薫風自南来 殿閣生微涼 (くんぷうみなみ...) 南から薫風が吹き殿閣を涼しい心地良い空間にするとは優雅な状況ではあるが、 禅語としてはもし「如何なるか是諸仏出身の処」と問われたなら、 このように答えてやろうといわれた圜悟禅師の説法を聞いて大慧禅師が大悟されたというので有名になった。 煩悩妄想を消し分別執着の垢を払い、清涼そのものの境地を表現したものであり、悟りの境地にほかならないと言える 雲悠悠水潺潺 (くもゆうゆうみずせんせん) 雲は全く無心で何のかかわり煩うこともなく悠々としている。 渓谷を流れる水は休むことなくサラサラ流れている。 動かない静の雲と水も休むことなく流れ共に無心である。 光陰如箭 (こういんやのごとし) 禅堂では時を告げる木板に「生死は大事なり。無常は迅速なり。光陰矢の如し、時人を待たず」 と書して修行者を戒める。時間ほど大きな働きをするものはあるまい。 一日二十四時間に使われず、使ってこそ無限に充実する。 紅爐一点雪 (こうろいってんのゆき) 煩悩妄念を断滅した坐禅三昧の正念のある処、ここにはどんな邪念も寄せつけない。 迷妄、邪悪は、恰も紅蓮の炎をあげて赤々と燃え盛る炉の上に、一片の雪花が舞い落ち、 一瞬のうちに溶けて跡形もなく消えてしまうかのようだ。 香煙一坐禅 (こうえんいちざぜん) 良寛さんの詩の一節に「知らず何を以ってか仏恩に答えん 一炉の香煙一坐禅」とある。 安らかに坐禅の日々を送れる有り難い仏恩に何を以ってお応え出来るのか。 只香をたいてひたすら坐禅にいそしむだけだ。 枯木龍吟(こぼくりょうぎん) 枯木に風が当たると、ビュービューとあたかも龍が鳴いているかのような音を立てます。 枯れきった木のようでも、そこには無心自在のはたらきがある。 対句に「髑髏裏眼晴(どくろりのがんぜい)」と続きますが、 サレコウベがクワっと眼を開いた、生き返ったということです。 これは、「枯木」「髑髏」を死とか静とか平等一枚の境地にたとえ、 「龍吟」「眼晴」を活とか動とか差別のはたらきに比して、死中に活あり、静中に動ありの意を表したものです。 ※ 出典は碧巌録 さ行 主人公 (しゅじんこう) 主人公とは仏性であり、大切なものである。私達は日頃この主人公を忘れ見失っている。 主人公を見いだし、これに相見することが肝要である。自己の主人公に目覚め、常にその明瞭さを保ち、 雲に覆われてしまわないように、油断をしてはならない。 諸行無常 (しょぎょうむじょう) 激動し、変遷が続く現代にあって、釈尊の説かれた真理は、 月の光にも似た光芒を放つ。諸行無常、是生滅法(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり)歓びと悲しみ、 そして苦しみ、さまざまな出来事があった中で、限りないいのちの歓びをたたえて、大晦日には、無常の響きを除夜の鐘が伝えてくれる。 松樹千年翠 (しょうじゅせんねんのみどり) 春は花、夏は新緑、秋は紅葉と感覚的な美しさに押されて、松の翠が人の目をひくことは少ないが、 寒風吹きすさぶ蕭条の候ともなれば、今まで目立たなかった松の翠の万古不易の美しさが、改めて見直されることになる。 うつろいやすい世の中の、うつろうもののみに目を奪われて、常住不変の真理を見失うようなことがあってはならない。 春眠不覚暁 (しゅんみんあかつきをおぼえず) 童心は道心に通ずとか。人は生まれ乍らに仏心を具備し、 教えずとも、おのずから輝き出る天真爛漫眠りのしぐさがそれを語る。 それを妨げるものは大人の欲。陽が高く昇ってもなお静かに眠る童子はどんな夢を見ているのだろうか。 春の眠りは深い。盛唐の詩人孟浩然(689~740)の「春暁」の一句。 晴耕雨読 (せいこううどく) 晴れた日には山を下り、百姓の牛の尻を追って農耕に従い、雨が降れば草庵で仏祖の書をひもとき、 静かに古教照心のひとときを送る。晴耕雨読の語は、濃州伊深の里で聖胎長養された頃の関山国師の日常を髣髴させる。 ある日突然勅使が下り、国師は召されて京に上ることになる。知らぬとはいえ、 そんな立派な国師に牛を使わせていた農民のなげきはつきないが、国師の面目は、自然に随順して生きた伊深の里の晴耕雨読の生活にこそあろう。 清風萬里秋 (せいふうばんりのあき) 人生の無常を感じつつ、今年も落ち葉を掃く季節が到来した。 無心に散った一葉に、自分を燃やし盡くしたものの姿の美しさを感得したい。 市中の息苦しい書窓にも、数竿の長竹は無限の清風を呼ぶ。 心の自由を取り戻した身心脱落の人にこそ一葉のそよぎに真の清凉の世界を体感する。 青山元不動 (せいざんもとよりふどう) 千変万化の人生の姿に本性不動の喩し。青山は本来、人の持つ仏性に、白雲は妄想や煩悩によく喩えることがある。 雲があってもなくても、青山は元々不動のものである。どこで何をするにしても、万縁万境に本性をとらわれることなく、 自らは変幻極まり無い雲に動じない悠々たる山のように泰然としていれば、魔性も亦、入り込む隙はなかろう。 青山常運歩 (せいざんじょううんぽ) 山は動かないものの代名詞だが、仏法の山は山のままで仏法を説き、仏道を示す。 あますところなく私達を包み込むように仏法を説きつつ、我が眼前にせまって来る清浄身つまり仏様。 人間の歩行のようでなくとも常に広大無辺青山より運歩して来る事なるを疑う事があってはならないと先哲は説く。 洗心 (せんしん) 「聖人は此を以って心を洗う」という古語がある。 神仏に詣でる時、手を洗い口を清めるが、同時に自らの心を洗い浄めることが肝要であろう。 手脚の汚れは目についても、心の垢には気がつかない。僅か二字にすぎないが、自省の座右の語として重く奥深い。 た行 体露金風 (たいろきんぷう) 体露とは全体の露顕、本体の露出ということで、宇宙大自然の現われであり、 仏のご慈悲の現われである。金風とは、錦の彩りに染めて豊熟した黄金の天地を創り出している秋風のこと。 自然の風景を眺め、ただ物思いだけにふけるのではなく、自己を習わねばならぬ。 竹有上下節 (たけにじょうげのふしあり) 「松無古今色 竹有上下節」人間平等の面だけを主張し、老幼の差別順序を無視し、貧富、 上下の差別のみを認めて人間としての平等を認めないのは物事の一面しか見ていない。 悪平等の傾向にある社会への警鐘でもある。 瀧 直下三千丈 (たき ちょっかさんぜんじょう) 水は自ら形無くともどのような形にも順応し、低きについて先を争わず、 時にはすべての生き物のすさまじい力となりて岩石も砕くエネルギーとなる。 全身全霊を叩きつける勇者の姿に筆魂が宿る。「飛流直ちに下る三千尺、疑うらくは、 是れ銀河の九天より落つるかと。」と李白はうたう。 月落碧潭 (つきへきたんにおつ) 岸辺の松の枝より天空に悠々と輝く一輪の月の眺めには一点の乱れなく無限の風趣が溢れている。 淡々と水をたたえ、幽谷に横たわる静かな湖に映える天地万象の脈動にこそ無作無心、任運自在の境涯がある。 月千古輝 (つきせんこにかがやく) 何時の世も変る事なき明日の光が、くまなく燦々と降りそそぐ。悠々たる秋の夜長の風情は、 古来、東洋の詩歌の題材として君臨している。理屈から抜け切り、この幽幻な風光に身心脱落、没入してほしい。 電光影裏斬春風 (でんこうえいりにしゅんぷうをきる) 凄まじい響きの語句である。円覚寺の栽松老大師が当時の小泉総理大臣に授けたとして紹介もされた。 無学祖元禅師が自国の能仁寺にいたとき、元の大兵に取り囲まれ、一人端座しておられる禅師は剣を突きつけられた。 その時「この世のすべては空である。剣で斬るならそうしなさい。しかし斬るといっても空を斬るのだから、 電光が光るうちに春風を斬るようなもので手ごたえはないだろう」見事な禅師の見識と度量に兵は逃げ去ったという。 時不待人 (ときひとをまたず) 時は一年三百六十五日の大道を、円転自在に生き抜いてきた生命の神秘をも包みこんで永遠に流れてゆく。 悠久無限なれば、決して戻ってこない。感謝とともに唯今の一念、一瞬一瞬をむなしく過ぐることを禅者は惜しむ。 遠観山有色 (とおくみてやまにいろあり) 「遠観山有色 近聴水無聲」山を離れて遠くから見れば、千紫萬紅の多彩は消えて青山一色、 そこには悟りの鋭さを拭い去った境涯がうかがえる。 山の中にいて山の大きさはわからないが遠く離れて始めて気付く山の大きさでもある。 独坐大雄峰 (どくざだいゆうほう) 「我がくらし楽にならざり、じっと掌を見る」啄木が詠じた歌の中に或る種の嘆きと未来を真剣に見つめる思いがこめられ、 かけがえのない自分の発見とともに大切に生きようと念ずる人生観を窺い知ることが出来る。 今、ここに「独りの絶対的な自分の存在」を感謝をもって自覚出来ることは素晴らしい。 な行 拈華微笑 (ねんげみしょう) 釈尊は八万の大衆を前にして、無言で一輪の花を示された。大衆沈黙の中に、ただひとり、 迦葉はその意を悟ってにっこりと微笑した。これで釈尊の後継者は決まった。 生きた仏法は、言葉を超え、教義を要せぬ。正に阿吽の呼吸である。これ程単純で真実の道があろうか。 ここに到るにはさまざまの道があり、方法がある。しかし、ここに到れば以心伝心、無心の心である。 は行 白雲抱幽石 (はくうんゆうせきをいだく) 深山峡谷に湧く入道雲。さながら眼前に石を抱く夏の妙景は喩えようもなく悠大である。 生けるものの如き夏雲の大自然の閑境に無心でひたるひとときにほっとする。 日出乾坤輝 (ひいでてけんこんかがやく) 「日出乾坤輝 雲収山岳青」水平線上の初日の出は、旧年の闇を一掃して、大光明は天地にかがやく。 新しい世界が生まれた。地上のたたずまいはそのままに、無限の光りを浴びて祝福の浄土が出現する。これは大悟の風光である。 心の太陽は、いかなる闇夜、いかなる暗雲の中にも必ず存在する。人は無知のゆえに、時に迷いと絶望の深底に沈むが、 心の太陽の実在を信ずる者は、やがて豁然と夜明けを見ることができるだろう。 百雑砕 (ひゃくざっすい)(ひゃくざっさい) 物体や器物だけではなく、心に宿る煩悩妄想、是非善悪や智識等一切を木端微塵に打ち砕いてしまえ。 地位、名誉の一切合切を捨て切れば、どんなにか清々した気持になれることか。 平常心是道 (びょうじょうしんこれどう) 日常生活は茶飯事にこだわることなく、伸び伸びと人生を味わい乍ら生きたいもの。 ところが、その伸び伸びとする心を真に自らのものにすることは至難の行である。 道は四六時中、踏まれても怒らないし、踏む人も踏んでいることを忘れている。 平易な言葉の中にもこのように意識が働く教えの厳しさを味うべきだ。 平常心 (びょうじょうしん) 「禅とは何か」という問いに、「食事がすめばお椀を洗っておきなさい」と答えた禅匠があった。 禅とは、或いは仏道とは何もむずかしい事ではなく、はからいのないあるがままの一瞬一刻を誠実に生きて行くことにほかならぬ。 理屈ではなく、その積み重ねが一年の歳月、一筋の道につながる人生となる事を教えて余りある。 風露香 (ふうろかんばし) 自らの修行の正師をそして一真実を真剣に求め、風をくらい野に露宿し、 求道に命をかけ行脚する僧侶の姿にこそ、輝かしい人生行路の象徴を見る思いだ。 福寿 (ふくじゅ) 禍いなく、寿命の長きを願うのは人の常。現実には仲々叶えられない。 今、禍いなければ、それが最大の福、生かされる尊い命あることを寿と受けとめ、 禍いの中に幸福をみる。「生死の中に永遠にほろびぬ生命の歓びを感得するのが仏法である」と。 無事是貴人 (ぶじこれきにん) 厳しい修行規格に従い、妙法に修行して転迷開悟の実をあげ、更に悟後の修行で悟りの臭みをぬき去り、 到達した迷悟両忘、酒々楽々の境涯からさらに無作無心の高貴な境涯に体達した人物こそ貴人。 無造作に自然法爾に行ずることが「無事」の意味。単に事故の無い安全、有閑徒食と間違えてはならない。 放下著 (ほうげじゃく) 「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味。 何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞。 禅匠はことさらにおろかな物事へのこだわりを戒めている。捨てきる心こそ、一切が生きかえる。 全くの無一物に徹することは至難の業。 ま行 松無古今色 (まつにここんのいろなし)< 「松無古今色 竹有上下節」春夏秋冬、一年を通じ、また、幾歳月を経ても、松は常に青々としてその色の変わることはない。 百年の風雪に耐えた松の緑こそは日本の誇りである。現代は緑を保つために現代の科学を動員しなければならない。 不断の工夫と努力で失われゆく緑の世界を守り、その言葉の裏にひそんだ「竹に上下の節あり」の平等即差別、 差別即平等の対句を忘れてはなるまい。 無 (む) 一字関としてよく用いられる語である。禅の世界で云う無は、「ある」に対する「ない」ではなく、 有無の二元を超えた絶対の無を指す。すなわち、禅の目的とする所は、この無を体得することに他ならない。 無常迅速 (むじょうじんそく) 生死事大、無常迅速。人の世の移り変りは常にはかなく変転してやまない。 時は移りゆき、形あるものは必ず滅する。一切が無常であり生滅するそのことわりを凝視して、 ぼやぼやしていたらすぐに死ぬのだから、あたら無駄に過ごしてはならない。 明歴々露堂々 (めいれきれきろどうどう) 「山川草木悉皆成仏」大自然、すべては仏法の貴い姿。 少しも、うそ、かくしがなく目の前に堂々と現われている真理を無心に眺めることの大切さに気づくことが尊い。 慕古 (もこ) 『得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり』(礼拝得髄) 吾が身を顧みて、素直に振り返りつつ仏祖の古道をお慕いし、それを現代生活に反映させる工夫が如何に大切かを道元禅師は説かれた。 あらゆる人間の生き方の根本には大地があり土がある。共生して生かされている自らであることをゆめゆめ忘れてはなるまい。 や行 葉々起清風 (ようようせいふうをおこす) 七月炎天下の静寂。「相送って門に到れば修竹あり。君が為に葉々清風を起す」心と心が触れあい、 共に修業で汗を流した交りはさわやかだ。辛苦の末に悟りを得て、師匠に送られて下山する弟子のその門出を、 風に揺れる竹笹の音までが祝福する。ひとまず重荷を下し、清らかな世界に心の自由を取り戻した身心脱落のひとときである。 ら行 流泉為琴 (りゅうせんをきんとなす) 岩もあり木の根もあれどさらさらと流れる水の流れは泉声と化し、清凉幽寂を深める琴の曲となって浮世の塵に汚れがちな人の心を洗ってくれる。 古人は「白雲を蓋と作し流泉を琴と為す」妙趣に至人の境涯を窺えと歌っている。 露堂々(ろどうどう) 「露」はあらわれる「堂々」は隠さないさまであるから、大意は一点かくすところもなくあらわれるということです。 「露」を「つゆ」と読んで夏らしい禅語と解釈するのは大きな間違いです。 昨今は隠す事件が多いですが雨、竹、風、松みな禅を説き仏の姿そのものです。 目前にはっきり現れるのに見ようとしないのは私達の妄想執着があるからです。 わ行 (なし)